1941年 昭和16年 アサヒスポーツ 体力検定受験紙上指導
昭和16年 1941年 10月
アサヒスポーツ 体力検定受験紙上指導
今回は、1941年10月、米国との戦争が始まる2ヶ月前の雑誌であります。
内容は、六大学野球・相撲・陸上などなど通常の記事もありますが
支那事変中でもあり、国防スポーツとか国民体力向上などの必要性が多く
語られているのであります。
この時代も、若者の体力低下が問題になり
前年の昭和15年に「国民体力法」という法律が制定されるのであります。
体力つけて結核予防。
男子は戦場へ。
女子は工場へ。
ということで始まるのです体力検定。
考察します。
メートルは、日本語で「米」という表記になります
(時代と共に変わる単位・表記の変化も興味深いのであります)
体力検定の項目ですが ・百米疾走
・二千米走 ・走巾跳 ・手榴弾投 ・運搬(50米) ・懸垂屈臂(けんすいくっぴ)
などで成績によって上中初級に分けられます。 ちなみ百米走は、
14秒以上が上級になります
そして、やはり気になるのが
指導記事の3分の2ほどしめた手榴弾投なのであります。
手榴弾投の指南役の沖田芳夫氏は、
アムステルダムオリンピック陸上男子円盤投・ハンマー投代表
元円盤投・ハンマー投日本記録保持者なのであります。
「持ち方と投げ方」 たてにして人指し指、中指切り口にひっかけ、親指と残りの指で挟んで持つ方法と横に持ち、親指と残りの指で挟み、てのひらにつかないようにして持つ方法。 普通は、小石を遠くに投げる感覚とさほど変わらない。 助走は、普通2・3歩から5・6歩あたりが最もよい。 上級の45米も楽に投げ、70米、80米も投げようと思う人は、もっと助走が必要になる。。 手榴弾の重さは、野球の硬式球の約3倍、およそ500グラム前後。 調べると野球の沢村栄治氏が78m、青田昇氏が81mほど投げたという記事などがあり、当時と現在の記事でみても事実に近く、中級40m、上級45mということなので
沢村氏や青田昇氏は、約倍近い距離を投げたということになり さすがプロ野球選手といったところなのであります。
しかし、沢村氏は、戦争中の手榴弾の投げ過ぎで肩を壊し、引退するのであります。
確かに、普通の兵隊の倍近く投げる人がいれば作戦上、致し方なかったのかもしれません。
「助走と足の運び」
遠くへ投げるためには、助走が不可欠であり、その足の運び方も
いくつかあるのであります。
(イ)は、図からでは、あまりイメージしにくいですが、
勢いつけて軸足にピョンピョンっと体重のせて、ためてー踏み込んで投げる。
実際やってみると、昔し遠投、これで投げておりました。
ステップを図だけで、理解するのは難しいのであります。
(ロ)は、左右左右左。まぁ歩いているのと変わりません。
(ハ)は、分かりません。遠くには投げれません。
ただし(ハ)は、自然に出来た自分の癖による方法でその人は、自然に楽に出来るが
これから練習を始める人は、ハの練習ではなくイ・ロのうち選んでやった方がよい
そう(ハ)の助走は、「基本が出来てないけど、高い身体能力で出来ちゃう人」用の例えなのであります。
この体力検定は、ナチス・ドイツが行っていた検定にも似た種目が多くあり、
同盟国同士で共有するものがあったと考えられるのです。
そして、現在、手榴弾投げという種目は現在ありませんが
当時の手榴弾の重さが約500g弱。現在の野球公式球が150g弱。簡単に計算してみますと約3倍強の重さのものを投げていたことになります。
なので、81m投げたのがどれだけすごいことなのか?
時代背景を色濃く残した種目でありますが、今こそ「現代版手榴弾投げ」を
どこかで上級目指してやってみようかと思うのであります。
<時代考察参考雑誌>
昭和16年 1941年 10月 アサヒスポーツ